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ターミネーターとキリスト教

投稿日:2019年12月22日 更新日:

徳本です。

『ターミネーター:ニューフェイト』を観て、私はさまざまな感想を抱きました。

『ターミネーター:ニューフェイト』はネットの評価だと賛否両論ですが、私は基本的にあの物語を肯定し、良作だと思っています。

そしてその、私が抱いた『ターミネーター:ニューフェイト』への感想のひとつに、“キリスト教的文脈からの脱却を果たしたな”というものがあります。

ターミネーターとキリスト教って、なんか関係があるの?」と思う方もいるかもしれませんが、大いに関わりがあります。

なぜなら『ターミネーター』とは、“イエス・キリストを彷彿とさせる救世主が現れ、人類を破滅から救う”という設定を背景にした物語だったからです。

今回は『ターミネーター』シリーズとキリスト教の関係性について、簡単に説明していきます。

また今回も、『ターミネーター:ニューフェイト』についてのネタバレがありますので、未見の方はご注意ください。


『ターミネーター』とキリスト教の関係性

『ターミネーター』シリーズの概要は以前の記事で解説したとおりです。

ターミネーターのタイムパラドックスへの考え方

『ターミネーター』シリーズで描写されてきた未来世界は、“人類を滅ぼそうとする機械とそれに抗う人類がいる”というものでした。

これまでのシリーズだと、防衛用コンピューター、スカイネットと戦う人類側の指導者は、“ジョン・コナー”でした。

そしてそのジョン・コナーを生み、育てた母親が“サラ・コナー”です。

実はこのふたりの名前は、キリスト教と大きな関係があります。

まずジョン・コナーですが、これはそのものズバリ、“イエス・キリスト”です。

イエス・キリストという名前は英語だと“ジーザス・クライスト(Jesus Christ)”と読みます。

映画評論家の町山智浩氏もいっていますが、ジョン・コナーという名前は、このジーザス・クライストとイニシャルが同じです。

  • ジョン(John)がジーザス(Jesus)、コナー(Connor)がクライスト(Christ)

そして、母親のサラ・コナー(Sarah Connor)の由来はおそらく、キリスト教の正典に加えられた『トビト記』に登場する女性、サラだと思われます。

この『トビト記』はキリスト教だと旧約聖書第ニ正典に含まれており、サラはヘブライ語で“高貴な女性”を意味する言葉となっています。

『ターミネーター』のサラ・コナーは、Connor(Christ)という名前を与えられているとおり、劇中ではキリストを生む聖母マリアの役割にも位置づけられています。

また、『T1』では未来から来た戦士、カイル・リースが“サラは未来の指導者、ジョン・コナーを生む”と彼女に告げますが、これはおそらく聖母マリアの受胎告知が元ネタです。

そして極めつけは、人類と機械の戦争の始まり(『T1』、『T2』ではスカイネットによる核攻撃)が、“審判の日(Judgement Day)”です。

この審判の日(Judgement Day)という名前は、ユダヤ教やキリスト教などに見られる“最後の審判”が元ネタだと考えられます。

キリスト教での最後の審判とは、「イエス・キリストの再臨によって、永遠の命を与えられるものと地獄に堕ちるものとにわけられること」をいいます。

『T1』、『T2』での審判の日以後は、ジョン・コナーが人類抵抗軍を率いて戦います。

これは、“イエス・キリストによって永遠の命を与えられたものが選別されること”への、メタファーだと考えることが可能です。

ですから私は、『ターミネーター』シリーズには、キリスト教的な要素が深く関わっていると思うわけです。



なぜ『ターミネーター』にキリスト教の要素が入れられたのか

疑問なのは、“なぜ『ターミネーター』にキリスト教の要素が入れられたのか”ということです。

私の推測ですが、初代『ターミネーター』をつくるとき、監督のジェームズ・キャメロン氏が、“売れない監督だったこと”と関係があると思います。

キャメロン氏は初代『ターミネーター』をつくる前の初監督作品、『殺人魚フライングキラー』で大失敗を経験し、評論家やマスコミから酷くこき下ろされました。

次の監督作品である『ターミネーター』では“絶対に失敗できない”と考え、興行的には確実に成功を収める秘訣を用意したのではないでしょうか。

それが、“キリスト教モチーフの物語”として、『ターミネーター』の物語を組み立てることです。

アメリカはキリスト教の要素が根強い国であり、今も大統領が聖書に手を置いて宣誓したり、「God bless America(神よ、アメリカを祝福せよ)」といったりします。

アメリカの大衆にとって、それだけキリスト教は身近なものなのです。

つまり、アメリカの大衆に確実に受ける映画をつくるためには、キリスト教の要素を入れ込んだほうがよいとわかります。

キャメロン監督は、『ターミネーター』を“アメリカの大衆に確実に受ける映画”とするために、あえてキリスト教の要素を作品中に入れたのではないでしょうか。

『ターミネーター2』でキリスト教文脈に少しの変化が生じる

第1作、『ターミネーター』が世界的な大ヒットを収めたあと、続編の『ターミネーター2』が制作されました。

こちらの『T2』でも『T1』からキリスト教の文脈を受け継いでいますが、そこにはわずかな変化が見られます。

まずイエス・キリストに該当するジョン・コナーは、『T2』劇中で当初、盗みや万引き、不法侵入を繰り替えす不良として描かれています。

このジョン・コナーがターミネーター、T-800と擬似的な親子のような関係となるわけですが、ジョン・コナー=キリストと考えていた当時の観客にとって、この不良描写は少し意外だったかもしれません。

なぜなら“イエス・キリストが窃盗や万引き、不法侵入やバイクの無免許運転を繰り返している”わけですから、キリスト教徒にとっては少しショックだったかもしれません。

しかし『T2』で描かれたジョンとT-800との擬似的な親子関係や重厚なドラマ、“未来は変えられる”というテーマによって、その非難は少なかったものと考えられます。

キャメロン氏の手を離れた『ターミネーター』は、なぜヒットしなかったか

キャメロン氏の手を離れた『ターミネーター』シリーズでも、“ジョン・コナーが人類の救世主”というフォーマットは崩されませんでした。

しかし『ターミネーター3』から始まる『ターミネーター4』、『ターミネーター:新機動/ジェネシス』はヒットしませんでした。

それはなぜかというと、『ターミネーター3』で“未来は変えられない”と描いてしまったことによって、観客が「これ以上観てもなんの期待もできない」と思ったからではないでしょうか。

その“未来は変えられない”と描いてしまったことはキリスト教文脈が『ターミネーター』の劇中にある、ないに関係なく、観客が映画館に足を運ばない根本的な理由になったと考えられます。

『ターミネーター:ニューフェイト』で否定されたキリスト教文脈

そして2019年に公開された、『ターミネーター:ニューフェイト』では、これまでの作品では考えられなかったことが起こります。

『ターミネーター:ニューフェイト』では、キリスト教の文脈を劇中で明確に否定したのです。

まず本編の出だしからそれは顕著であり、イエス・キリストの立ち位置にあったジョン・コナーが、いきなりT-800によって殺されます

このT-800は『T2』で出てきたものとは別ですが、それでもキリスト教徒である、ないに関係なく、レギュラーキャラクターが死んだ衝撃は大きかったと考えられます。

『TDF』の劇中では、未来世界をスカイネットに代わる新たなAI、リージョンが支配していることや、人類軍が結成され、それに抗っていることが明らかになります。

人類軍を指揮するのは、ダニエラ(ダニー)・ラモスというラテン系アメリカ人の女性です。

ジョン・コナーとは違い、キリスト教を彷彿とさせる要素がまったく見当たらない人間が、人類の指導者となっているのです。

またリージョンが送り込んだターミネーターは、REV-9という型番です。

しかしREV-9は、新約聖書ヨハネの黙示録(英語でRevelation)第9章が元ネタではないか、といわれています。

ヨハネの黙示録は終末預言書としての解釈もされており、第9章には世界の終末を表すかのような記述がなされています。

そして敵のコンピュータ、リージョン(Legion)は読みを変えると、マルコによる福音書第5章に登場する、悪霊、レギオンとなります。

レギオンは、キリスト教で悪魔ばらいが肯定されている理由のひとつですが、悪魔ばらいは、悪魔と勝手に見なされた人が殺される事件の原因です

つまり『ターミネーター:ニューフェイト』では、ヨハネの黙示録の名を冠した敵を倒すことで、“未来は変えられる”と訴えると同時に、ジョン・コナーを殺し、指導者が変わることで、キリスト教文脈を否定していると考えられるのです。


なぜキャメロン氏はキリスト教文脈を否定したのか

キャメロン氏が『ターミネーター:ニューフェイト』でキリスト教文脈を否定したとすれば、それはなぜなのでしょうか。

考察材料としてあげられそうなのは、キャメロン氏が監督を務め、2009年に公開された映画、『アバター』です。

『アバター』の劇中では「パンドラ」という地球外の惑星が出てきて、そこに住む宇宙人・ナヴィは東洋的な“自然を神と崇める”人たちだと描かれています。

地球のエネルギー問題解決の鍵となる鉱石を採掘するため、地球人の主人公たちはパンドラを訪れます。

主人公とその協力者は、ナヴィの人々の東洋的な“自然を尊び、自然とともに暮らす”という考えに惹かれ、やがてパンドラを侵略しようとする同胞たちに反逆します。

つまり『アバター』劇中では、東洋的な“自然を尊び、自然とともに暮らす”という考えを肯定しているわけです。

『アバター』で描かれた世界観は、キリスト教の唯一神的な文脈とは相反するものです。

『アバター』の描写はアメリカの右翼や共和党、カトリック教会などを刺激し、「『アバター』は反キリスト映画だぁ!」と、キャメロン監督は彼らから強い非難を浴びせられました。

事実、キャメロン監督は『アバター』公開時に、アメリカの戦争に強く反対する旨を作品に込めたと表明しています。

また、キャメロン監督は過去に、“キリストに妻子がいた”とする、キリスト教の教義に意義を唱えるようなドキュメンタリー番組もつくっています

キャメロン監督が反キリスト教の考えを抱いているかどうかは不明ですが、キリスト教の死者復活のようなカルト的な側面には、反対していると考えられます。

そして『ターミネーター:ニューフェイト』の製作に携わったとき、キャメロン氏は『アバター』の続編に関わってもいました

このことが、『ターミネーター:ニューフェイト』劇中で、キリスト教文脈が否定された理由なのではないでしょうか。

まとめ

『ターミネーター』シリーズとキリスト教の関係性について解説してみましたが、いかがだったでしょうか。

誤解のないように示しておきますが、私はキリスト教の信者でもなければ、キリスト教に傾倒してもいません

むしろ反キリスト教の立場に近いです。

ただ、『ターミネーター』シリーズとキリスト教の関係性は確かにあるので、今回、その詳細について解説してみました。

そして『ターミネーター』シリーズに込められた、“人が人を思う気持ち”や“人間同士のつながりを尊ぶ”ことが“人間の強さ”だというメッセージを、私は支持しています。

それは、キリスト教徒である、ないに関わらず共感できることのはずです。



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