最近私が思うのは、表現に対する「責任」のこと。
何かを調べてものを書いたり作ったりするときは当然、出典の情報が正しいものである必要があります。
しかし世の中にはろくに調べもせずにものを書いたり、つくったりする人が多く居るばかりか、ネットが台頭したことによって、以前よりも容易に誰もが「表現」できるようになっています。
ネットを使えば、誰でも情報の発信者になることが可能です。
しかしそれは「表現の責任」を自覚しない者が、ものを書いたり作ったりするリスクが高まるということ。
事実、ネット上には誤ったデータに基づいた記事や情報があふれており、それらを鵜呑みにしたことによる問題も発生しています。
普段目にするメディアでも「自称専門家」や「分かったつもりになっている人」に専門的な物事を論じさせたり喋らせたりしており、それに影響を受けているのか、事実に基づかない考えを振り回す人間の数が増えているように感じます。
我々がここでもう一度考えないといけないのは、「表現の自由」と「表現の責任」ということ。
これらを見誤ると、「自由」が「虚実」や「暴力」を正当化させるための詭弁と化すだけだと思います。
◆この記事の目次
表現の自由とは何か
よく「表現の自由」という言葉が使われますね。
「表現の自由」とは憲法に明記されている事柄であり、国家権力による言論弾圧や思想の取締りを防ぐためには必要な条項です。
しかし「表現の自由」と言ったって、何をしても良いというわけではありません。
このことは憲法の条文云々というよりかは人間としての「良識」の問題ですし、今ここで現行憲法について論じるというわけでもありません。
今回論じるのは、「人がものを表現するということにおいての自由とは何か」ということ。
たとえば「事実と異なることに基づいて相手を批判したり、事実無根なことを真実のごとく流布したりするのは『自由』でしょうか?」というような、根本的な話です。
この上述の「事実無根を流布したり、虚偽に基づいて批判したりするのが自由か」というと、それは違うと思います。
そもそも「表現の自由」というのは、「健全な社会を守るため」にあるもの。
社会の構成員は「国民」ですね。
この「国民」とは当然人間です。この国民と呼ばれる人達の間で「正確な事実の共有や正確な事実に基づく批判」が行われているのであれば、その点に関しては「健全」だと言えるでしょう。
ところが、仮に「虚実や事実無根の事柄」が共有されたり、これらに基づいて批判が行われるとどうなるでしょうか。
「事実と異なることが共有されたり、虚実に基づく批判がされる」ということは、個々人の認識のベースに「事実でないこと」が存在してしまうということ。
「事実でないこと」に基づいてものを論じると、物事が「実際はどうなっているのか」が分からなくなります。
事実に基づかなくなると、議論的はずれな議論や言論が飛び交うようになり、実際は「A」なのに「B」だと思い込んでそれを支持したり動いたりする人が増えれば、最悪の場合は国が滅びます。
なぜなら上述のような現象は「毒を薬だと思い込んで飲み、死んでしまう」ようなものだからです。
「毒を薬だと思いこんで飲み、死んでしまう」のと同じことが、国家レベルでも起こり得るというわけです。
だから「正確な事実の共有や正確な事実に基づく批判」が大事だと言えるんですね。
また、「人々の思考を偏らせる情報」や「事実に基づいてはいるが、事実を都合よく歪曲していたり、都合よい事実を寄せ集めただけの情報」などを「これが正解」と言わんばかりに流すことも、「表現に対する責任」を欠いたものだと言えるのではないでしょうか。
メディアと表現の自由
なぜ「表現に対する責任を欠いたもの」だといえるのか。
その理由は、全ての国民が情報の真偽を見極められるとは限らないからです。
仮に情報源を辿って掲載されていることが事実だったとしても、それにやたらとバイアスが掛かっていたら同じことです。
しかしマスメディアは先に述べたような「自称専門家」や「その分野に関する知識のないタレント」、「分かっているつもりで実は分かっていない人」によく喋らせますね。
間違ったことを言っている可能性もあるというのに。
朝の情報番組でも「〇〇さんいかがですか?」とか言って、政治分野に関する話題を門外漢のタレントに喋らせたり、殺人事件の犯人像をなぜかお笑い芸人に論じさせたりなど。
もちろん、きちんとした知識と深い認識があるのなら、職業が何であろうと話せば良いと思います。
「タレントやお笑い芸人だから話すな」と言っているわけではありません。
私がここで言いたいのは、「なぜ分からないことに口を挟むのか」、「なぜ分からない人に喋らせるのか」ということ。
たとえば医療分野の専門的な話を、そのことに関する知識のないタレントやお笑い芸人に喋らせますか? 普通はしないと思います。
医療の話と同様、政治や殺人事件に関する話も「国という共同体」や「人の命」に関する大切な事柄です。
そんな大事なことをなぜ知識のない人に語らせるのか、私には全く理解できないんですね。
先に述べたように、タレントやお笑い芸人でも、「きちんとした深い知識・認識がある人」は専門的な話題を論じても問題ないと思います。
問題は「分かっていない人に話を振らせるメディアの体質」です。
海外ではこんな現象はあまり見られません。
海外のメディアだと、たとえば政治分野なら、本当の意味で政治に詳しい人が論じます。
しかしなぜか日本のテレビでは、「その分野に関する知識を持たないタレントにコメントを求める」というおかしな現象が発生しているんです。
これもメディアが「表現に対する責任」を自覚していないからではないか、私はそう思っています。
また「商業主義」が理由なのか、「国民の思考の質を落とすようなウケを狙った番組を作る」という問題もマスメディアにはありますが、それはまた後日論じたいと思います。
まとめ
日本では「表現の自由」を教えたり論じたりしていますが、「表現に対する責任」に言及するということはあまりありません。
私が思うに「自由」も大事なことですが、それを本当の意味で守るために必要な「責任」についても、考えることが大切なのではないでしょうか。