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フランダースの犬を名作だと思わない理由

投稿日:2019年9月5日 更新日:

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朝ドラの『なつぞら』終盤では、主人公、奥原なつたちが手掛けた『大草原の少女 ソラ』という、あの『アルプスの少女ハイジ』に相当する劇中作が出てきました。

『アルプスの少女ハイジ』は後の「世界名作劇場」シリーズの礎となった作品です。

私は「世界名作劇場」シリーズが好きであり、その物語の完成度の高さ、質の良さ、人物描写の深さと巧みさに魅力を見出しています。

2019年のサンテレビでは『ペリーヌ物語』や『家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ』、『フランダースの犬』、『小公女セーラ』などの世界名作劇場シリーズを放送していました。

私はこれらの作品を視聴しましたが、そのうち作劇的に微妙な出来だと感じたのが『フランダースの犬』です。

この『フランダースの犬』は、よくテレビのバラエティで“感動できる名作”として紹介されますが、果たしてその評価は妥当なのでしょうか。

私がそう考えるきっかけになっているのが、劇中の“人物描写の甘さ”と、“大人達による年端もいかない子供への陰湿な虐待”の数々、そして“救いようのない結末”です。

私は、物語が必ずしもハッピーエンドでなければならないとは思っていません。

しかし『フランダースの犬』で描かれている“薄っぺらい人物像”には、どうも違和感があり、ことさらに悲劇を強調しようという制作者の姿勢が、作品から滲み出ているように思うんですね。

今回は私が『フランダースの犬』を名作だとは思えないという、その理由について書いていきます。


フランダースの犬とは


フランダースの犬』は1975年にフジテレビで放送された、「世界名作劇場」シリーズの第1作目です。

フランダースの犬』は、主人公・ネロと彼の飼い犬・パトラッシュとの友情を描いた作品として認知されており、その悲劇的な展開と結末からあまりにも有名な物語です。

『フランダースの犬』は一般的に、“少年と犬との友情物語”のようにいわれています。

しかし『フランダースの犬』の劇中ではネロとパトラッシュの友情よりも、全体的にヒロイン・アロアとの“恋と呼ぶにはまだ幼い関係性”や、村の人々との確執や繋がり、ネロの“画家になるという夢”への情熱のほうが強く描かれていると思います。

また『フランダースの犬』はラストの悲劇性や展開の陰鬱さでも有名ですが、悲劇ばかりが起こるというわけではなく、楽しい日常や友情、人の親切なども描かれています。

ただ、問題はその“親切な人”と、展開の陰鬱さの原因である“性根が腐った連中”の描写の薄さです。

また冒頭で述べたように“悲劇性を強調しようとする展開”にも、大きな問題があるように思います。

その理由は以下の通りです。

人物描写が薄い

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まず挙げられるのは、“人物描写が薄い”こと。一言でいうと、親切な人は“親切”、考えの腐った奴らは“嫌な人”としか描写されないんですね。

たとえば嫌な人の描写には以下のようなものがあります。

アロアの父親であるコゼツは娘可愛さに囚われ、それゆえネロにきつくあたる人物として描かれてはいますが、10歳の少年と9歳の少女が一緒にいるだけで、「なにか間違いがあってはいけない」と述べるような、あまりにも大人げない人物として描かれているのです。

このセリフは彼の考えに由来しています。

彼はもともと貧乏だったことを棚に上げ、貧乏人のネロを差別し、村の地主である自分の娘とネロがくっ付いてはいけないと考えているのです。

またコゼツは10歳の少年であるネロを、なぜか「怠け者」、「絵描きなんて馬鹿げた夢を見ている」と評し、彼が働き者で正直者であるということを知ろうとしないという、極端に愚昧な人間として描かれています。

しかしそれだけではなくコゼツは、家で雇っている商業使用人・ハンスの“常軌を逸した言動”に容易に引っかかり、グルになってネロを弾圧するという情けなさを抱えていました。

そしてこのハンスという男も極端な馬鹿として描かれており、一言でいうなら“サイコパス”じみた人間として、嘘と詭弁を弄し、ネロに対して鬼畜の所業を次々と行います。

たとえば後述する風車小屋に火をつけた犯人を、確定的な証拠もないのにネロだと決めつけ、コゼツとグルになって罵倒したり、家賃が払えない=路頭に迷うネロを嘲笑したりなどです。

ハンスがネロに難癖をつける理由も無茶苦茶であり、被害妄想と、彼に対する意味不明な敵意(ネロが原因でないことが明確なのにも関わらず、自分が被害を受けたのはネロのせいだetc)を滲ませたものが大半を占めています。

つまりハンスもいかにもな“悪役”として描写されているのです。

確かに現実にサイコパスはいますが、だからといって、この話にわざわざそういう、ハンスのような人物を出す理由はなんでしょうか。

単にコゼツやハンスはネロの“妨害役”以外の何でもないのではないでしょうか。

一方の“親切な人”はいかにもな、“良い人”として描かれ、ネロの間違いを指摘したり反省を促したりといった描写も皆無。

ネロの保護者であるジェハンじいさんが年老いているにも関わらず、ネロに「絵描きになることを目指すにしても、それで身を立てられないこともある。だからきちんとした仕事を見つけなければいけない。絵を描きたいならその中でやれば良い」と諭す人は、誰もいないのです。

だから私は、『フランダースの犬』の人物描写が薄いと思うわけです。

救いようのない展開

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次に挙げられるのが、展開の救いようのなさ。

前述のハンスやコゼツを主な原因とし、ネロは終盤で村八分にされます。

それはネロが風車小屋を燃やした犯人として見做されたからですが、それは冤罪であり、ネロはやってもいない罪によって追い詰められていくわけです。

最終的にネロは念願だったルーベンスの2枚の絵を見ることはできましたが、それでも絶望に打ちのめされた状態でパトラッシュとともに、大聖堂の中で死んでいきます。

しかしこれはなにも“生きたくても生きられなかった”というものではなく、ネロは周囲の助けの手も拒絶し、木こりのミシェルから手渡されたお金も衝動的に絵を見るために使ってしまい、結果、死に至ってしまうわけです。

つまりネロ自身が生きようと思えば生きることができたのであり、あの結末は実質的に、飼い犬とともにネロが緩慢な自殺を選んでしまった、というものだといえます。

この救いようのない展開になにか意味はあるのでしょうか。

“感動する作品”といわれていますが、よく考えてみたら“年端も行かない少年が追い詰められ、村八分にされ、最後は飼い犬とともに死ぬ”という、全く救いようのないお話です。

この結末には当時のスポンサーだったカルピス社長、土倉冨士雄氏の意向が大きく反映されており、ネロが最後天使たちに運ばれて死んでいくというのも、土倉氏がクリスチャンだったことに関係があります。

キリスト教では“死後の世界に理想を見出す”という変わった考え方があり、ネロの最期もこれに則ってハッピーエンドだとしたかったのでしょうが、かなり無理があると思います。

この結末には制作側の自己欺瞞があるように感じるのですが、いかがでしょうか。


まとめ

私が、『フランダースの犬』を名作だと思わない理由には、人物描写の薄さとことさらな悲劇性強調があると述べました。

もちろん私の意見に反対する方もいるでしょうし、感動できる「名作」だと認識している方もいるでしょう。

私自身にとっても『フランダースの犬』劇中で描かれるネロとアロアの関係性や、周囲の人々との繋がりなどは、この話の魅力のひとつだと思っています。

また見方によっては終盤の村八分は、“全体主義”の恐ろしさを学べる展開だと解釈することもできるでしょう。

しかし私にとってこの『フランダースの犬』という作品は、世界名作劇場シリーズの中でもあまり好きな話ではなく、物語の根底に制作側の自己欺瞞があるとも思っています。

「名作」と呼ばれる作品に対しても、世間的な評価に左右されずに、実際を見て判断してみることが大切なのではないでしょうか。




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