徳本です。
現在、NHKのEテレでは、小説『赤毛のアン』シリーズの再アニメ化作品である『アン・シャーリー』が放映されています。
私は原作小説の『赤毛のアン』を読了し、世界名作劇場シリーズとして制作された旧アニメ版の『赤毛のアン』も視聴済で、今回の『アン・シャーリー』に関しても視聴を継続中です。
現時点(2025年6月時点)では第10話まで視聴済みなので、本記事では、今のところの『アン・シャーリー』に対する個人的な感想を述べておきたいと思います。
私はこの『アン・シャーリー』に対し、第4話までは脚本に問題点が多く、第5話からはそれらが改善されていく傾向にあったと思っています。しかし、キャラクターや服装のデザイン、演出などにはまだ致命的なミスがあるとも思っています。
そのため、記事内では批判意見も多く書いているので、そのことを事前に留意していただけますと幸いです。
また、記事中には、『赤毛のアン』やアン・シリーズに関するネタバレが豊富に含まれているのでご注意ください。
◆この記事の目次
『アン・シャーリー』の原作である『赤毛のアン』とは
『アン・シャーリー』は、約100年前のカナダの作家、L・M・モンゴメリが執筆した小説『赤毛のアン』シリーズを原作としています。
『赤毛のアン』はアン・シリーズの1作目に該当する作品です。
物語は19世紀のカナダのプリンスエドワード島の架空の村、アボンリーを舞台としています。孤児の少女であるアン・シャーリーがマリラとマシュウのカスパート兄妹のもとに引き取られ、友人達との交流や数々の出来事と別れを通じ、彼女が大人の女性へと成長していく様を描いた作品です。
現在では古典文学に該当する作品で、多彩な人物の描写や関係性、作品中に込められたテーマなどの要素によって、現在も多くの人々に愛されている作品です。
今回、アニメ化された範囲に含まれるのは、アン・シリーズの『赤毛のアン』と『アンの青春』、『アンの愛情』までの3本です。
『アン・シャーリー』について感じた6つの問題点
以下からは、私が『アン・シャーリー』について感じたポイントについて述べていきます。
今回のアニメ化において、私が問題点だと感じた要素は以下の6つです。
- 人物描写が大幅に削られている
- シュール・コメディ作品としての要素の削減
- 登場人物像の改変
- 時系列の矛盾
- 物語の内容と整合性がとれない色彩表現
- 原作の地の文で書かれた服飾のデザインを無視している
人物描写が大幅に削られている
まず、人物描写が大幅に削られているという点が『アン・シャーリー』の問題点として挙げられます。
原作は主人公のアンを含め、数多くの個性的な人物の関係性や心情描写、心境の変化などが丹念に綴られている点が特徴です。
1979年に世界名作劇場の枠で制作された『赤毛のアン』のアニメ版は、原作の持ち味を引き出すための一部のアニメオリジナルエピソードや改変を除き、各エピソードをほぼそのまま映像化しています。
原作の人物描写の妙味や場面の間、余韻などが表現され、今も原作小説の映像化作品として高く評価されています。
しかし今回の『アン・シャーリー』では、原作に存在した描写がカットされ、アンやマシュウ、マリラ、アンの友人達の心情描写と彼らの心理的変遷などが大幅に削られました。
例えば、農場の働き手の男の子を求めていたマリラが、アンを引き取ろうと決意するに至るまでの細かな心境変化は省略されています。
アンが心の友(村岡花子訳を定本とした『アン・シャーリー』では「腹心の友」)と呼ぶダイアナ・バーリーと出会った後、親睦を深めていった過程も省略されています。
お互いの家の窓辺にろうそくを立て、その前でガラスを上下に動かし、モールス信号を使って連絡を取り合うという、原作ファンには馴染み深いシーンに至るまでの経緯も削られました。
原作では人物の心境の推移や関係性の変化、人情の機微などが豊富に描かれており、それらがドラマ性の面白さに繋がっているのですが、『アン・シャーリー』では尺の都合で多くがカットされているのです。
原作に存在する心理描写をカットしてしまえば、作品のドラマ性の低下は避けられません。
ただし、第5話目からは原作の出来事を2本ほど1話分に凝縮するようになったので、短い尺の中でポイントをおさえつつ、登場人物たちの描写がされるようになりました。
そのため、作品のドラマ性の低下にある程度は抑制がかかり、後述する演出や色使いの問題を除けば、原作を知っていても視聴に耐えられるようになっています。
シュール・コメディ作品としての要素の削減
次に、『アン・シャーリー』の物語では、原作の持ち味であるシュール・コメディ作品としての要素が削られています。
『赤毛のアン』は、強烈な個性を持ったアンと様々な登場人物達が関わることによって生まれる、ユーモア溢れる面白さを持ち味とする作品です。
物語の大部分はアンが何かトラブルを起こす→解決か、アンが何かに真剣に取り組むもやらかす→解決という要素が描かれ、トラブルややらかしの内容はあまりにもぶっ飛んでいます。
アンが起こす事件に対してマリラは呆れ、ダイアナは同情し、トラブルの憂き目にあった当の本人(隣人のレイチェル・リンド夫人やアラン牧師夫人etc)はアンの真剣さを認めて彼女を気に入るなど、周囲の人々の反応も様々です。
『赤毛のアン』には想像力豊かなアンが何か大げさなことを言い、マリラが淡々と突っ込むといった場面もあります。
落ち着いた淑女に憧れているので言葉遣いも丁寧ですが、アンは想像したことを他人と共有したいのか、アサルトライフルのフルオート射撃でもするようにやたらと喋りまくる子です。
アンの口からは丁寧な言葉遣いのマシンガントークが頻繁に飛び出すので、台詞を読んだり聞いたりしているだけで面白く、これが作品のコメディ要素の中心となっています。
また、アン以外の登場人物もただ個性的なだけではなく、どこかコメディチックな要素を含んでいます。
例えば、ダイアナは想像力はやや乏しいものの、アンの想像力から来る突飛な発言も受け止める優しい美少女です。しかし、作中ではギャンブラーになり得る素質があることが示されます。
上記の要素が示唆されたのは、アンとダイアナがダイアナの叔母であるジョセフィン・バーリーに招かれ、プリンスエドワード島の都市部に該当するシャーロットタウンへ出かけた時です。
シャーロットタウンでは競馬競争が行われており、それを鑑賞したダイアナは子どもなのに馬にお金を賭け、当てて大喜びしてさらにお金を注ぎ込もうとするのに対し、アンは「ギャンブルは良くないこと」と自制する場面があるのです。
他にも、アンが友人のジョーシー・パイの挑発に乗って屋根の上を歩き、地面に落下して意識不明になった際には心配のあまり、「死んじゃったなら死んだって言ってちょうだい!」など、天然なのか、何を言っているかよく分からないことまで言います。
また、アンの友人の1人であるルビー・ギリスは、金髪と碧眼を持った作中屈指の美少女として描かれています。
今回の『アン・シャーリー』でも、ルビーには非常に力の入ったキャラクターデザインがされていますが、原作と旧アニメ版、実写版の彼女は極度のヒステリー持ちです。
アンが同級生のギルバート・ブライスに赤毛をからかわれ、彼の頭を脳天から一直線に石板で殴り付けた際、ルビーは大声で泣き出します。
アンが屋根の上を歩いて地面に落ちた際には、ルビーも精神的ショックで気絶します。
アンが『アーサー王伝説』の登場人物であるエレーン姫になりきり、葬送の場面を再現するため、「川に浮かべた小舟に横たわって水上を流れ、船に穴が空いてて危うく溺死しかけた」時、ルビーは狼狽して叫びまくりながらも走って助けを呼びに行きます。
このように一癖も二癖もある人物が絡む面白おかしい日常が描かれ、その中でアンが教訓を得ながら人間として成長していくことが、作品の魅力を成す要素となっているのです。
『アン・シャーリー』では、こういった面白い人物描写の多くがカットされています。
第6話のように時々シュールさを漂わせることはありますが、後述のダイアナ酩酊事件や上記のアンの屋根歩行からの落下、小舟で流れる場面などからはコメディ作品としての要素が削り取られているのです。
例えば、上記のダイアナによる天然のような台詞はカットされ、アンとマリラのやり取りも大部分が削られ、アラン牧師夫人に至っては「痛み止めの薬入りケーキ事件」そのものがカットされました。
現代の日本ではコンプライアンスが重視されているので、アンが屋根から落下する話や小舟に乗って溺死しかける話などにコミカルさを入れると、「不謹慎だ!」との誹りを受ける可能性があるのでカットされたと考えることもできます。
しかし原作で描かれた場面のニュアンスを変えてしまえば、視聴者に伝わる面白さの性質も変化するので、それは元々の作品とは別物になってしまいます。
その上、『アン・シャーリー』では、登場人物達の人物像も改変されているのです。
登場人物像の改変
登場人物像の改変も、『アン・シャーリー』の問題点の1つとして挙げられます。
先述のルビー・ギリスはアンが屋根を歩いた際には気絶せず、穴が空いた小舟に横たわって死にかけた際は「誰かに助けを呼んで来るのよ!」と言い、ダイアナ達に率先して動く人物として描かれています。
つまり、『アン・シャーリー』でのルビーはヒステリーを起こす子ではなくなり、むしろしっかり者として描かれているのです。
また、ジョーシー・パイも原作では、アンが屋根から落下した事件の後も彼女に対して誠意のある謝罪をせず、その後も嫌味を言いつつもアンと交流を続けます。
しかし『アン・シャーリー』だと、ジョーシーはアンが屋根から落ちたことに対し、申し訳なさそうに涙を流して反省するといった様子が描かれます。これは原作ではあり得ません。
何故なら、ジョーシーを生んだパイ家の人々は物分かりの悪い人が多く生まれているという設定がされており、劇中でもそれが言及されているからです。
つまり、『アン・シャーリー』では、原作のキャラ設定を無視した改変がされているという問題点があるのです。
確かにジョーシーが屋根からアンが落ちたことに対しても悪びれる様子がなければ、ネット上で誰でも感想を述べられる現代では物議を醸すかも知れませんが、リスクを考慮しつつも、この場面はそのまま表現すれば良かったのではと思います。
ルビーは原作の続編である『アンの愛情』において、若くして病によって死亡するキャラクターであるため、必ず登場させなければならなかったことは想像に難くありません。
ルビーのヒステリー持ちの設定も物議を醸すと判断されたのかも知れませんが、ならば描写を削る方向ではなく、単に「心配性で怖がり」などの表現をすれば良かったのではないでしょうか。
人物像が改変された結果、初見視聴者にとってはルビーの印象が薄くなってしまったのではないかという懸念があります。
また、人物像の改変はサブキャラだけではなく、主人公であるアン自身も対象となっているように思えます。
アンは一見すると想像力豊かな明るい子ですが、その想像力は辛い境遇を乗り越えるために備わったもので、決してプラスの要素だけを含んだものではありません。
孤児になってから複数の家庭を転々としてきたので、カスバート兄妹の住むグリーン・ゲイブルズに行くときも期待だけではなく、また捨てられるのではないかという不安を滲ませます。
旧アニメ版の線路を歩く場面は、アンが不安を抱えながらも、「今はこの状況を楽しむ」といった考えのもとで線路を歩行していると捉えられるシーンで、後の話における彼女の台詞への伏線だと考えられるものでした。
ところが、『アン・シャーリー』第1話のアンは「新しい家族のもとで暮らせることのワクワクした気持ちを抑えられない」ような描かれ方がされ、上記の不安感は微塵も感じられないものでした。
他にも、地面に置いていた革のトランクをいきなりテーブルの上に載せる、ベッドから飛び起きる、パンを食いちぎる、がに股でジャンプするなど、淑女に憧れているアンではあり得ない描写が頻出します。
つまり、主人公のアンに対しても人物像の改変がされていると判断できるのです。
ただし、第5話からのアンについては、原作での人物像に近い表現がされていたので、『赤毛のアン』のパートにおけるアンの描写が全ておかしいわけではありません。
とは言え、解釈によっては原作前半のアンに関する描写を削り、中盤以降の彼女の人物像を取ってつけたようにも見えます。
また、原作の後半には、15歳になったアンがそれまでの出来事を経たことで美しく聡明な落ち着いた女性になる話があります。
ファンにはおなじみのアンの成長を描いた話ですが、『アン・シャーリー』でのアンは15歳になった後も明るく元気な要素が強く打ち出されており、19世紀後半ではなく、まるで現代の15歳の少女のようでした。
第1話から原作の人物像をきちんと表現し、15歳になった際の変化を強調してくれていれば、完成度が上がったことは間違いないので残念な印象でした。
時系列の矛盾
『アン・シャーリー』第4話では、時系列的におかしい場面が2つ存在しました。
第4話ではアンがダイアナとのお茶会を開き、そこでマリラが用意していたいちご水(原文ではラズベリーコーディアルというシロップ)を出そうとするも、間違えて別のところにあったワイン(原文ではスグリ酒)を提供してしまうという話です。
酒を飲んだダイアナは酔っ払ってしまい、気分が悪いと言って帰ります。その後、アンは隣人のレイチェルからダイアナの母親が激怒している旨を聞き、いちご水を出したつもりの彼女は驚愕します。
しかし、この後の場面でアンはマリラに対し、「気分が悪いと言ったダイアナを家に連れて行った際に、バーリー夫人から絶交を告げられた」と語るのです。
レイチェルに会う前にバーリー夫人から絶交を言い渡されているはずにも関わらず、何故かアンがレイチェルに会った際に「バーリー夫人が怒っている」と聞かされて驚く場面が描かれています。
また、第4話ではギルバートの一件があって以来、不登校になっていたアンが学校に復帰する様子も描かれました。
教室では、復学したばかりのアンとギルバートが勉強でライバル関係になっている旨が語られます。しかし、時系列を考慮すると疑問が生じます。
ギルバートは石板の一件があった日に学校に復学した経緯があり、その日にアンは不登校になりました。
復学したばかりのアンとギルバートがライバルになるには、彼女が学校に戻った後に少し日が経っていないとおかしいですが、何故かアンが復学した日にギルバートとライバル関係になっているのです。
作品の尺が足りないため、おそらく4話目の段階でアンとギルバートの張り合いを描き、アンが15歳になって以降の展開に繋げる必要があったのだと思います。
しかし、結果として時系列に矛盾が生じてしまっているので、もう少しタイムラインを考慮した脚本にする必要があったのではないでしょうか。
物語の内容と整合性がとれない色彩表現
『アン・シャーリー』に出てくるキャラクターの外見には、物語の内容と整合性がとれていない色彩表現がされています。
例えば、原作ではダイアナは黒髪と黒目のキャラクターとして表現されていますが、本作では彼女の瞳は緑色に改変されています。
ギルバートも原作では茶色(brown)の髪の毛ですが、『アン・シャーリー』における彼の髪の色は、実際の赤毛に近いオレンジっぽい色です。
単に登場人物の外見が原作から変化しているだけではなく、2人の瞳や髪色の変更は内容に影響するものでした。
ギルバートは赤毛を持ったアンをからかい、激昂した彼女に石板で頭を殴られる位置付けのキャラクターで、これがアンとギルバートの生涯に渡る関係性の始まりとなっています。
ところが、『アン・シャーリー』では赤毛であるアンをからかうギルバートの髪が現実の赤毛と同じ色になっているため、話の内容と整合性がとれなくなっているのです。
本作では原作の村岡花子訳本を底本としており、そこではギルバートの髪色は「鳶色(とびいろ:鳥のとんびと同じ色)」として訳されています。
確かにカラーコードで検索すると、明るめの鳶色である「紅鳶(べにとび)」は本作におけるギルバートの髪色と同じですが、実際の鳶色は赤暗い茶色(#7A380F)です。
『赤毛のアン』は髪色や服の色などが重要な作品なので、例えばアンの髪色も「視聴者にはそう見える」といったアニメ的表現ではなく、劇中で本当に赤毛として設定されています。
他の登場人物の髪色や服飾品の色もそれに準じていると考えられるため、髪色が紅鳶のギルバートがアンに石板で叩かれるシーンは、からかった側とからかわれた側の双方が赤毛という奇妙なことになっていました。
また、ダイアナについては瞳と髪の色から、「原作が描かれた当時にプリンスエドワード島に住んでいた、ブラック・アイリッシュと呼ばれる北アイルランド系の人ではないか」という研究結果があります。
『赤毛のアン』シリーズは創作ですが、当時の現実の文化や歴史を背景設定として採用している作品です。そのため、ダイアナの瞳の色改変は、当時島に住んでいた人々のルーツに関係する要素を弄っていることになるのです。
他にも単なる光の表現ではあるものの、ダイアナと彼女の妹であるミニー・メイの髪が緑色になるシーンがあり、これも視聴者にとっては2人が緑髪に見えて違和感を生じさせ得る要素になっています。
原作では、アンが行商人から「これを使うと髪の毛が黒くなるよ!」という類のことを言われて独断で染髪料を買い、使った結果、髪の毛が緑色になって絶望する話があります。
本作でもその話はありましたが、光の表現とは言え、ダイアナやミニー・メイの髪色が海藻のワカメのような緑になっているシーンがあるため、視聴者にとっての説得力が薄くなっているのです。
今のアニメの表現でダイアナを黒髪黒目にした場合、かなり地味なキャラクターデザインになるでしょうが、その場合は原作に書かれていない髪型やリボンなどを特徴的なものにする、瞳を黒の範疇と解釈可能な灰色や茶色にするといった方法もあります。
実際、第6話でアンが書いた物語に出てくる黒髪黒目の登場人物は、黒髪に茶色の瞳で表現されていました。そのため、ダイアナに関しても同じようにできたはずです。
他にも原作の『赤毛のアン』では、アン自身が「赤毛の女の子はピンクの服を着れない」と発言しているシーンがあり、今作でもその場面は書かれていました。当時の西洋における文化的背景として、赤毛の人物がピンクの服を着ることはご法度とされていたことが、アンの台詞の理由となっています。
ところが、『アン・シャーリー』では、アンが15歳になってからピンク色の服を着て普通に出歩く場面が描かれています。
劇中では誰もそのことに言及する人物はいないので、「アンが当時の風習を打ち破るようなことをした」と描かれているわけではない、彼女の服の色は劇中ではピンクとして扱われているわけではないと判断できます。
しかし、視聴者にとってはピンク色に見える服を着たアンが画面に映っているので、先述の台詞と対応しておらず違和感が半端ないです。
つまり、各キャラクターの色彩表現が疎かになった結果、『アン・シャーリー』ではそれぞれのエピソードの本来の魅力が損なわれてしまったのです。
原作の地の文で書かれた服飾品のデザインを無視している
『アン・シャーリー』では、原作の地の文で表現された服装や小物類のデザインを無視しています。
例えば、原作『赤毛のアン』の終盤では、アン達がシャーロットタウンにある病院へのチャリティとして、ホワイトサンドホテルのコンサートに招かれます。
アンはダイアナによって「最も似合うドレス」としてコーディネートされた、白いオーガンジー(薄手で透け感のある平織りの生地)のドレスを身に纏い、バーリー家の白いバラとマシュウがくれた真珠の首飾りをつけ、コンサートで詩の朗読をすることになります。
しかし、『アン・シャーリー』ではアンが纏うドレスは明るい茶色で、オーガンジーとは言及されているものの、とてもそれとは思えないよく分からない生地で作られたものでした。
本アニメでは、コンサート終了後のアンの台詞でダイアナがしてくれたドレスコーディネートについて触れられているため、より原作通りのデザインにしたほうが良かったと思います。
ドレスのデザインを変更する明白な理由があれば分かるのですが、何の理由もなしに全く別のデザインが採用されているので、違和感がありました。
原作で明記されている服飾品や小物類のデザインを変えた場合、原作ファンにとっては改変されたデザインがチラチラと映ることになるので、作品への没入感を阻害する要素になってしまいます。
例えるなら、Switch2やPS5でゲームをしているにもかかわらず、時々キャラクターやオブジェクト類のグラフィックがGCやPS2レベルに下がってうんざりするようなものでしょうか。
他にも、マシュウが亡くなって日が経っていない(つまり当時の西洋における喪に服す期間が明けていない)にもかかわらず、アンがピンクの服を着てアラン牧師夫人と話すなどの致命的なミスも見られました。
『赤毛のアン』という作品にはアン自身の美しいものに対する憧れを踏まえ、当時のカナダの文化を背景とした上で、服や小物類に関する描写が豊富にあります。
そのため、原作に描かれている外見や服装などを弄ることは、作品の魅力的な要素やリアリティを一部損なうことになってしまうのです。
『アン・シャーリー』について感じた3つの評価ポイント
『アン・シャーリー』について、私が良い点だと思ったポイントは以下の3つです。
- 作画が綺麗
- OPとEDの曲と映像が良い
- 第5話からの脚本は改善傾向にある
作画が綺麗
『アン・シャーリー』の作画は非常に綺麗です。
世界名作劇場の時(1979年)と比べて著しく発展したアニメの表現技術を活かし、舞台となっているプリンスエドワード島の木々や海、空の風景は麗しく表現されています。
季節の移り変わりに伴って生い茂る草木や降り積もる雪、島特有の赤い地面など、自然の美しさを描き出そうという試みが感じられます。
登場人物の作画も安定しており、アンやマシュウ、マリラやダイアナなどのメインキャラクターだけではなく、モブキャラに対しても綺麗に描かれている点も特徴です。
特に第8話のホワイトサンドホテルのコンサートが終わった後、アンが「自分は他の誰にもなりたくない」とダイアナ達に語る場面は、きらめく海原と大島ミチル氏のBGMの相乗効果により、感動的なものに仕上がっていました。
基本的に映画並みのクオリティに仕上がっているので、作画の完成度の高さを求める方はその点で満足できるでしょう。
OPとEDの曲と映像が良い
次に、OPとEDの曲と映像のクオリティが高いことも評価ポイントの1つです。
OPの冒頭の歌詞は「未来や人の心が読めないことによって、あり得ないことを好きに想像できる」というニュアンスを含んでおり、映像の後半ではマシュウやマリラと一緒に並ぶ大人のアンが描かれています。
第10話のマシュウの死を見た後だと、OPの歌詞と映像がより響くものになっており、あり得ないこと=「大人になった後もアンのそばにはマシュウが居ること」と解釈できるようになっているのです。
つまり、想像の翼を羽ばたかせることで、亡くなった大事な人との繋がりを感じられたり前に進んでいけたりするという、アンという人物の成長後の根本を伝えようとする演出意図がそこからは読み取れるのです。
EDの映像では少女時代のアンが走っていく様子を背後から捉えたカットがあり、彼女が少しずつ大人になっていくことを知っている視聴者はアンが今後歩む道のりを思い、感慨深くなれます。
一部の場面に気になるところはありますが、OPとEDには『赤毛のアン』という作品へのリスペクトが感じられる要素が多く描かれているため、これだけでも必見だと言えるでしょう。
第5話からの脚本は改善傾向にある
私が視聴した限りだと、『アン・シャーリー』の第5話からの脚本は4話までより改善されていく傾向にありました。
第5話はアンがマシュウから膨らんだ袖(パフスリーブ)のドレスをプレゼントされ、クリスマスのコンサートに参加する話で、同じくパフスリーブの服が特徴的なアラン牧師夫人やアンの恩師となるステイシー先生も登場します。
アンとアラン夫人、ステイシー先生と、パフスリーブを共通のキーワードにしてそれに関連した3人を描きつつ、複数の内容を1つの物語としてなかなか良くまとめており、後半への伏線も3つ張るなどの要素も見られました。
第6話は前半でアンが自分の書いた物語の内容をダイアナに語るシーンをユーモアを漂わせて描き、後半では行商人から買った染髪料で髪が緑に染まることとその教訓をシュールさを交えて描いており、原作のユーモア小説としての要素をきちんと再現できていました。
第7話と第8話も、アンが将来の目標を見出したり15歳になった際の変化を少しだけ表しつつクイーン学院の受験を描いたりと、話を詰め込みながらも原作ファンの視聴者も楽しめるように作られていたと思います。
続く第9話と第10話も、アンがクイーン学院へ進学して奨学金を受け取るまでの過程や、マシュウが亡くなってアンが大学への進学を中断し、教師としてアボンリーで教えることになるまでの流れを上手に圧縮していました。
ただし、マシュウがアンに贈ったドレスのデザインが変わっていたり、ステイシー先生はパフスリーブの服を着ていなかったり、アンの人生の道標を示すアラン夫人はほとんど出なかったりと、色々と片手落ちになっている感は否めません。
また、15歳になったアンに対してマリラが感慨深くなって涙を流す場面は、1話分の前半に少しだけ描くのではなく、後半部分に変更してきっちりと描いたほうがより深みが出たのではないかと思えます。
他にも、尺が短い中で原作のエピソードを詰めて描いたことで、アンが来てからのマリラとマシュウの心境変化を十分に描けなかったことも否めません。
結果、第9話冒頭のアンが来て自分達の暮らしが明るくなったと示すマシュウの台詞、第10話でのマリラが同じく悲しみの淵に居るアンに向けて思いを吐露する場面では、積み重ね不足によって原作よりも軽い場面になってしまっていました。
また、尺が短いことによってアンを示す要素が表現しきれず、彼女について初見視聴者が間違って解釈する可能性が高かったことも否定できません。
つまり、原作の3巻分を24話にまとめる都合上、本来であればもっと良く描けたエピソードが十分に表現できていないように思えるのです。
『アン・シャーリー』には尺と専門家の監修が必要
『アン・シャーリー』には、原作の内容を十分に表現できるだけの尺と、19世紀後半の文化や風習、作品内容に精通した専門家の監修が必要不可欠だったと思います。
今回の『アン・シャーリー』が原作3巻分の内容で構成されているのは、おそらく、『赤毛のアン』を4クールかけて描いた世界名作劇場版との差別化を図ってのことだと推測できます。
しかし、原作『赤毛のアン』だけでもボリュームがあるのに、そこに『アンの青春』や『アンの愛情』の内容も放り込んで2クールで描こうとしてしまえば、尺不足になることは明白だったはずです。
そのため、最初からきちんと全体の尺を考慮した上で企画を通す必要があったのではないでしょうか。
原作は世界的に知名度が高い作品なので、原作ファンを含めた多くの集客が見込めるため、数クール分の尺を用意することは可能だったはずです。
例えば、今回のアニメ化では『赤毛のアン』の部分を2クールほどで映像化し、好評であれば2期で1クールを使って『アンの青春』、3期でもう1クールで『アンの愛情』を描ければ、表現不足の問題は解消されたのではないでしょうか。
また、『赤毛のアン』は19世紀末のカナダを舞台としているため、当時の文化や風習を背景とした台詞や場面が多く存在します。
『アン・シャーリー』でも当時の人々の文化や暮らし、習俗に関する情報に沿ってキャラクターの動きや服装などを描く必要があるのですが、このアニメではそれができていません。
仮に脚本が良い話があったとしても、原作での描写を最初から投げ捨てていたり時代考証が不十分だったりすれば、それがノイズになって総合的な完成度は低下せざるを得なくなります。
専門家の監修があれば、上記の問題も発生しなかったのではないかと思うので、『アン・シャーリー』は非常にもったいない作品になっていると思います。
まとめ:『アン・シャーリー』はもったいない作品
本記事では、アニメ『アン・シャーリー』について私が問題だと思ったポイントと評価したポイントについて掲載しました。
『アン・シャーリー』は原作の3巻分を2クールにまとめる形式で作られているため、物語の進行は早くなり、気軽に見やすくなっているとは思います。
しかし「気軽に見られる」ようにした結果、原作の持つ深みが大幅に削られ、同じエピソードでも話の積み重ねによって生じる感動が半減してしまったように感じられます。
また、原作に描かれている要素を意味もなく改変したり当時の文化を反映した要素を無視したりしているため、原作ファンであれば作品を観ていて残念に思うことが多々あるのではないでしょうか。
内容を要点に絞って圧縮しており、作画も美しいので、原作ファンでない方が何も知らない状態で『アン・シャーリー』を観れば、確かに面白いと感じられるでしょう。
あくまで約6ヶ月間放送されるアニメとして気軽に「消費する」という観点で鑑賞した場合、完成度が高く見えると思います。
ただ、原作の『赤毛のアン』シリーズは「消費される」物語として作られたわけではなく、作者のL・M・モンゴメリが精魂を込め、彼女のライフワークとして完成させた作品です。
現代のアニメに多く見受けられる「消費する」文脈に対応させ、内容や要素を削り取ったり改変したりしてしまえば、作品本来の魅力は損なわれてしまいます。
『赤毛のアン』はユーモアと奥深さが調和した非常に稀有な作品なので、その本来の良さが発揮されるアニメがいつか再び作られ、『アン・シャーリー』を楽しんでいる方々もそれに触れられる機会が来ればと思います。